プロフィール

どん底から這い上がった私のストーリー 〜本当の自分を取り戻すまで〜

はじめまして。

ライトワーカー  癒しのマインドチェンジセラピストのmasayoです。

人に振り回されていつも自分を後回しにしてしまい

負の感情から抜け出せず人間関係に疲れているあなたへ

本当の望みを知ってあなたらしい笑顔で生きて行きませんか?


親の期待に応え続けた幼少期 〜「良い子」でいることで自分を見失う〜虚無

親の期待に応え続けた幼少期 〜「良い子」でいることで自分を見失う〜

私は、教育熱心な真面目な両親のもとで育ちました。

兄は家から遠くのしっかりしたカリキュラムのある幼稚園に通い、私は近所に新しく出来た幼稚園に通いました。

私は幼稚園が大好きで、とくに担任の先生が明るく優しく毎日会えるのが嬉しかった。

外遊びが大好きで、習い事よりも友達と外で鬼ごっこしたり、すべり台やブランコで遊ぶのに夢中になってました。

そんなある日、母が何気なくこんなことを言いました。

「もう、遊んでばかりいて」「もう少しちゃんとお勉強させてほしいわね」と

その言葉を聞いた時、楽しい毎日や大好きな先生が母にはちゃんとしてないように見えてるのかな・・・と感じ、シュンとなり寂しく思いました。

また当時、友達が持っていたリカちゃん人形が羨ましく私も「リカちゃん人形が欲しい!」と母にお願いしました。

でも母が買ってくれたのはコンパクトで可愛らしい別の人形でした。

見た目は十分可愛かったけど、友達と遊んでいてもなぜかいつも満たされなかった。

子供心に「なんでこれになるの?」と思い、やっぱり「同じもの」が良かった。

それから、周りの友達がみんな自分の家で誕生日会を開いていて、それがすごく楽しそうに見えました。

だから私もお友達を呼んで誕生会をしたいと思ってました。

でも、祖父母と一緒に暮らしていて、母は「うるさくなるから」と祖父母に気をつかってOKしてくれませんでした。

私はただただせつなかった。

いつも自分の思っていることが出来ないのと、母に「あまのじゃく」と言われ、何を言ってもダメなんだと感じ私が「あまのじゃく」だからいけないんだと思い、それからは自分の思いを言わなくなりました。


高校での孤立 〜対人恐怖症と腸過敏症候群〜絶望

私は中学から女子校に進学し、高校1年生で、中学より憧れていた先生のクラスになりとても嬉しかった。

ある日、友達と一緒に何気なく調理台の上にあった厚紙に、何気なくいたずら書きをしました。

すると、ホームルームで先生より「誰か家庭科室でいたずら書きをした人はいませんか?もし、いたら言いに来てください」と言われたので、すぐに一人で謝りに行ってしまいました。

なぜなら「悪いことをしたら謝らなきゃ」との思いで、他の子の気持ちを考えず行動してしまいました。

それで、そのことがきっかけとなり友達との関係が悪くなり距離をとるようになりました。

友達関係が上手くいかなくなったこととかクラスの中で孤立することが増えたことで、このことが原因で、そうなったんじゃないか

「先生ももう少し対応してくれてもよかったんじゃないか」という思いが出て

先生へ不信感を持ちました。

それ以来人と関わることに強い不安を感じ、腸過敏症候群も発症し友達もいなくなり、孤独で苦しい高校生活となりました。

この頃、なんでそう言われたか定かではないけど母から「黙ってなさい」と言われ、さらに人前で話すことが怖くなりました。

「どうせ何を言ってもダメだ」「あきらめた方が楽かも」と思うようになりどんどん自分の気持ちを押し殺して生きるようになりとても無力感や閉塞感を感じました。


試練の連続 〜次女の染色体異常と夫の突然の失職〜憂鬱

結結婚し、次女が染色体異常で小さく生まれ、直ぐさま顔も見れずに保育器に入れられました。

主治医からは次々に厳しい診断が告げられ、私はあまりのショックで立ち直れませんでした。

私は赤ちゃんが生まれるということは幸せなことだと思っていたのに、

この時、私は幸せを感じられなかった。

周りのお母さんたちは、とても幸せそうに見えて、それを見ているうちに、どんどん笑顔が消えていきました。

ミルクを飲んでも噴水のように吐出し、硬直した手足、中々大きくならず辛い気持ちの中、

主人が何の相談もなく突然会社を辞めて来ました。

こんな大事なことをどうして私に話してくれなかったんだろう。

夫婦として、信頼し合っていると思っていたのに、それが一方通行だったのかと思えてとても悲しく失望しました。


精神病院への入院 〜心が壊れ、初めて母に反抗する〜開放

ずっと胸にためこんでいた思いが苦しくて、夜も眠れない日が続いていました。

本当は母に相談したかったのですが、その日は母が仕事で不在でした。

どうしても誰かに聞いてほしくて、障害の子を持つ親の集まりの代表の方に電話をして相談しました。
するとその方に精神病院へ連れて行かれ、その日のうちに即入院させられました。

その時、私はなんで母は助けてくれないんだろうと思い悲しかった。

本当は、母に話を聞いてもらいたかった。

退院後は通院しながら薬を飲み、2年ほど治療を続けました。

そしてある日、やっと母に思いをぶつけることができました。

「今までずっと悲しかった!」

「どうして私の気持ちをわかってくれなかったの!」

抑え込んできた気持ちをたくさんぶつけました。

私は、ずっと「母が喜ぶように」と生きてきて、何か問題が起きるたびに「自分が悪いんだ」と責めて苦しんでいました。

でも、その気持ちを吐き出したことで、少しだけ心が楽になりました。


主人がパン屋を始めたものの、慣れない経営の重圧からうつ病を発症し、さらに躁うつ病へと悪化してしまいました。

私は必死に支えようとしましたが、どれだけ尽くしても思いは届かず、主人の問題行動に傷つき、混乱し、心も体もすり減っていきました。

行政機関や無料相談にも頼りましたが助けにはならず、「いのちの電話」にも何度も電話しましたがつながらず、物凄く辛い日々が続きました。


運命を変えた「本」との出会い~平安

そんな絶望の中でとても共感できる本に出会い

「ありがとう」「ついてる」という言葉にとてもいい言葉だと思いました。

本を沢山何度も読み返し、言葉をくり返して言いながら意識することで、ふと

「私は、何のために生まれてきたんだろう?」と思うようになりました。

そして、その問いに向き合うようになり自分を変えるプログラムを受講。

誰にも言えなかった悩みをカウンセラーに聞いてもらい、心が軽くなり救われました。

それから自分の心と対話し瞑想に興味が湧き、学び始め、この世は無常であり、人生で起きるすべてのことは自分を成長させるために起きているとまるごと受け止めるようになりました。

さらに、学びを通して行動力がつき、少しずつ外の世界に出られるようになりました。


少しずつ変わる世界 〜「私は私のままでいいんだ」~安堵

そこから、私の人生は少しずつ好転していきました。

「私は私のままでいいんだ」と思えて、しだいに自己肯定感がupして

今は毎日穏やかに暮らせて幸せです。

不思議と知的障害のある娘とも心が通じるようになりました。

そして、自分自身を取り戻した私は、今、同じように悩み苦しんでいる人たちに寄り添いたいと思っています。    

あなたへ伝えたいこと

人は幸せになるために生まれて来ます。今の苦しい思い込み、考え方を手放して

幸せの未来を手に入れましょう!

あなたに笑顔をお届けします。

誠心誠意お手伝いいたします。是非、私に会いに来てください。

次はあなたの番ですよ! お待ちしております。